月曜日, 8月 08, 2005
広島にて・1
1週間、広島にいました。噂どおり、東京よりかなり暑い!朝早くから夜までジャージャーと泣き続けるセミの声が、さらに暑さを演出します。
終 戦60年という記念の年―― 「原爆の日」を前に、広島は一見穏やかに見えました。整理された道路、広い歩道。ゆっくりと走る市電が、懐かしい雰囲気をかもし出しています。でも・・・ どうしても重なってしまう「あの日」の光景。街に出れば常に、「60年前」に思いをはせずにはいられませんでした。
初日はなにはともあ れ、平和記念資料館へ。50円という入館料(すばらしい!)を払い、地下から順にみていきました。被爆者の方々の平均年齢は、今年73 歳を超え、ここのところ、原爆にまつわる思い出の品を後世に伝えたい、と資料館に寄付なさる方々が増えているそうです。展示してあるものそれぞれに物語が あり、それぞれの持ち主の人生があり・・・そして、一瞬にしてもたらされた地獄がありました。それは実に重い、「事実」でした。
進んで行くうちに、やりきれない気持ちになり、それでも目をそらすことや足早に過ぎることなど出来ず・・・入ってから3時間半が経ち、閉館のアナウンスが流れても、まだ館内全部を見終わってはいないほどでした。
ス ペインのある新聞への記事のために無作為に行ったインタビュー取材では、平和記念公園の近くで偶然、被爆者をご家族にお持ちの方にお話を聞くことが出来 ました。記念館に被爆に関する品を寄付しにいらっしゃったお兄様を、木陰でお待ちになっているところだったその方は、広島に原爆が投下された当時2歳。ご 自身は疎開していたため直接被爆はされなかったものの、お母様は、ご家族を探しに爆心地近くまで来て被爆。お兄様は、学徒動員で働きに出ていた同級生が全 員即死、ご本人はその日、疎開の準備で家に残っていて、一人助かってしまったのだといいます。
外国人の視点からは、「アメリカにうらみはあるか」という質問がどうしても出てくるので、答えはわかっていつつもお尋ねしました。
「うらみ?そんなもの持ちようもない。あちらは戦勝国、我々は見込みのない戦争をやった。それが全てだ。戦争とは、そういうものだよ。そして、一部の指導者のせいで大迷惑をこうむるのは、いつも一般市民なんだ。」
その方と別れ、橋を渡りました。あの日、多くの方が煉獄のなかを水を求めてたどりつき、力尽きて重なるように死んでいった川。その上を今、のんきに渡っている自分がいて・・・ふと、長いと思っていた「60年」という時間が、一瞬縮んだように感じました。
広島の人々は、このような強烈な現実のなかで日々生活しているのだ、と思うと、「広島に生まれる」というのは今でも特別な意味のあることなのだ、という気がしました。
世界遺産となった原爆ドーム。サダコの折鶴。声を荒げることなく、青空の下静かに平和を訴える「ヒロシマ」―― その心を、いつまでも世界に発信し続けてほしいと、切に思いました。
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