土曜日, 8月 20, 2005

朝は中国、午後スペイン・・・


土 曜日は太極拳の日。コンサートが入ることも多いので皆勤とはいきませんが、気がつけば、始めてから1年半が経とうとしています。太極拳は、型どおり動かせ ばよいラジオ体操と違い、ひとつの動作を限りなく深く突きつめていけるところに面白さがある、とは先生の弁。その言葉どおり、体重のかけかた移しかた、 ちょっとした足の向き、指先の意識、視線などなど、回を重ねるにつれコメントも細かくなっていきます。最初のうちは、1時間強の練習を終えたらももがパン パンになるような状態でしたが、最近は余裕が出てきました。でも、ちょっと怠けるとその分身体も後退してしまっていて・・・やはり、何事も続けることが大 切ですね。

そ して、今日は先生か ら嬉しい提案が!10月から、希望者は「扇」を使った太極拳にも入るというのです。そのうち簡化42式にも進むのですが、その前に演武として見ても楽しい 扇を、と、先生は早くも来年の当マンション夏祭りでの披露を念頭においている様子。一度、小金井公園での太極拳デビューのときに先生の表演を見たことが あったけど、優雅かつ武道的でステキだった!あぁ、早く私も扇が持ちたい。バラッ、バラッとかっこよく開いたり閉じたりしたい!秋が待ち遠しくなりまし た。

さ てさて、実はわたくし、フ ラメンコ(舞踊)を再開しています。スペイン古典舞踊・民俗舞踊を習得したくて探し当てたスタジオでしたが、そのクラスを見学に行ったらレベルが高すぎ。 まるで舞踊団のようで、6年のブランクがある私はついていくのは100%不可能、と先生に相談し、土曜の初級クラスから地道にやっていくことにしました。

し かし、初級といえどあなどるなかれ。以前通っていたスタジオはどちらかというとお遊びムードがあり、和気あいあいでしたが、ここでは誰もが真剣、言葉も交 わしません。それに実際は初心者はほとんどいず、かなりのレベルなので、基本的な動作はしつこく繰り返すようなこともしません。多少あったはずの経験も消 えうせゼロに近い状態の私は、週1回では追いつかないという感じですが、なんとか、くいついていきたいと思います。

そ のようなわけで、土曜は身体を動かす日。翌日曜日は、肩の付け根がちょっぴり痛むのですが、これもそのうちなくなることでしょう。ピアニストというのは、 長年続けてきた姿勢(鍵盤のある前方に腕を出す)のために肩がどうしても内側に入ってしまっているので、フラメンコなどの舞踊で肩を広げて姿勢を正した り、普段とは逆の方向に筋肉を使ったりするのはよいことなのです。だから「背泳ぎ」も有効。ともかく単純に、身体を動かすって気持ちいいですね!

日曜日, 8月 14, 2005

めだか狂騒曲


夏祭りの季節!花火大会は峠を過ぎてしまいましたが、まだまだ、東京でもいろいろなお祭りが楽しめます。家の近所でも、地域活性化計画の一環なのか、毎週のようにお祭りがあり、なかなか楽しめています。

さ て先日、駅から歩いて帰宅しようとすると、駅前からのびる商店街でのお祭りに遭遇。この辺りは太鼓が盛んなのか、多くの太鼓愛好団体があるのですが、祭 りとくれば太鼓はつきもの。この日も、おそろいのはっぴに鉢巻姿のうら若き女性たちが、かっこよく太鼓を披露していました。その日はちょうど、友人のスペ イン人親子と一緒だったので、彼らも思いがけないイベントに大喜びでした。

そこで、お姉さんがめだかを売っていて、ちょっと気になり立ち 止まってみました。犬や猫は飼いたくても飼えないけど、めだかちゃんなら・・・と思ったの で、市価の半額になっているというシロメダカを2匹、いただいてきました。水草もちょっとわけてもらい、水のこと、えさのことなどを聞いて、ルンルンと持 ち帰り。とりあえず、ガラスの花瓶に移すと、まだまだ小さく、透き通るような体で、元気に泳いでいるみたいでした。

さてそこから。お姉さ んは、エサはいらない、水も1週間に1度半分換えればよい、と言ってたけど・・・念のため、インターネットで「めだかの飼い方」を検 索。すると・・結構、細かいことが書いてあるじゃあありませんか。ずっと花瓶では、どうもかわいそうらしい。糞を分解するためには砂をしいたほうがよいと か、メダカ用のえさを1日1~2回食べきれる分だけ与えるべし、とか・・・。

早速、わがメダカさまたちにとってまあまあ快適で、こちらの お財布もあまり痛くない、という程度の環境をつくるため、LOFT、東急ハンズを回りまして物 色開始。砂ひとつ選ぶのに、あれでもない、これでもないと大騒ぎ、なんか楽しい!体調1cmに満たないメダカ相手にこれなのだから、犬をお持ちの方の気持 ちはいかばかりか。

そんなこんなで、水槽、砂、めだかのえさ、めだかの水などを購入。水草を買ってこなかったのはちょっと失敗。とりあえ ずは、今あるもので我慢です。新居に 引っ越した彼らの名前は、フレディとアミィに決定!(仕事関係の友人2人《フランス人、イスラエル人》から、勝手に名前をもらっちゃいました)
さてこの2匹、つがいなのかな?

月曜日, 8月 08, 2005

広島にて・2


さて、前回書ききれませんでしたが、今回広島に行った目的は、NHK主催の<平和巡礼2005>というイベントでした。「広島原爆の日」に当たる86日、平和記念公園に1万人の観客を入れての野外コンサート(式典以外のイベントに開放されるのは初めてのこと)、日本のテレビチャンネルでの放映のほか、インターネットを通じて世界に中継されました。

世界各国から集まった若い音楽家たちと、地元・広響のメンバーによって、この広島・長崎「平和巡礼」1回限りのために結成されたワールドユースオーケストラを、佐渡裕さんが指揮。このコンサートの原点は、20年前にバーンスタインが広島で行った「平和コンサート」にあり、バーンスタインの最後の愛弟子であった佐渡さんにとって、今回のコンサートはやはり大変思い入れがあるようでした。

そ して、「世界平和を訴えたい」という共通の思いのもとに集まったソリストや俳優の方々――ミーシャ・マイスキーさん、五嶋龍さん、佐藤しのぶさん、佐野成 宏さん、キュウ・ウォン・ハンさん、槙原敬之さん、吉永小百合さん、平幹二郎さん――とともに、素晴らしい音楽を作り上げていきました。

リ ハーサルから全部聴かせていただき、若い外国の演奏家たちが、初めて日本にやって来て、「ヒロシマ」を体験することで、徐々に変化していくのがとても印象 的でした。それから素晴らしかったのが、広島市民の合唱。バーンスタインの「カディッシュ」などの難曲も完璧にこなし、また<川よとわに美しく>といった 広島にしか歌えない歌、これはほんとうに「思い」が伝わってきて、聴くたびに目頭が熱くなるほどでした。

コンサート当日の朝は、5時半に起きて平和記念公園へ。8時から行われる式典の席を確保するためです。2時間以上座ったまま待ち、やっと式典が始まりました。屋根のない席、8時台でも広島の太陽は容赦ありません。もう暑さで倒れそう、本当に意識を失うかと思いましたが、「あの日」はこんなものではなかったのだ、こんなことくらい我慢しなくてどうするんだ・・という気持ちで、耐えていました。

夜のコンサートは、少々雨もぱらつきましたが、感動的なものでした。総勢200人 近い演奏家、歌い手がステ-ジでひとつとなり、佐渡さんの入魂の棒のもと一期一会の音楽をつくっていきます。<川よとわに美しく>の演奏前、被爆された合 唱団メンバーの一人がお話されました。「あの朝、自分は親友と立ち話をしていた。一瞬の閃光、ものすごい爆発音。そして意識を失った。気がつくと、まわり は地獄絵図と化していた。人々は丸裸に真っ赤な皮膚をたらし髪を逆立てて、幽霊のような姿。さっきまで話していた親友は、目の前で亡くなっていた。が、自 分には服が残っている。皮膚もある・・・それは、爆発の瞬間、自分が親友の陰にいたためだった。今夜は、友のために歌います――」

結 局、自分ひとり何をしても無力ではないか・・・と思ってしまいがちな現在の世界情勢ですが、たったひとりの行動が大きな波になることもあります。夢物語か もしれませんが、「音楽には力がある」と、あの場にいた全ての人が確信したと思います。音楽は楽しい。でももっと、何か・・・それを追い求めていきたいと 強く感じさせてくれた、広島の日々でした。

広島にて・1


1週間、広島にいました。噂どおり、東京よりかなり暑い!朝早くから夜までジャージャーと泣き続けるセミの声が、さらに暑さを演出します。

終 戦60年という記念の年―― 「原爆の日」を前に、広島は一見穏やかに見えました。整理された道路、広い歩道。ゆっくりと走る市電が、懐かしい雰囲気をかもし出しています。でも・・・ どうしても重なってしまう「あの日」の光景。街に出れば常に、「60年前」に思いをはせずにはいられませんでした。

初日はなにはともあ れ、平和記念資料館へ。50円という入館料(すばらしい!)を払い、地下から順にみていきました。被爆者の方々の平均年齢は、今年73 歳を超え、ここのところ、原爆にまつわる思い出の品を後世に伝えたい、と資料館に寄付なさる方々が増えているそうです。展示してあるものそれぞれに物語が あり、それぞれの持ち主の人生があり・・・そして、一瞬にしてもたらされた地獄がありました。それは実に重い、「事実」でした。
進んで行くうちに、やりきれない気持ちになり、それでも目をそらすことや足早に過ぎることなど出来ず・・・入ってから3時間半が経ち、閉館のアナウンスが流れても、まだ館内全部を見終わってはいないほどでした。

ス ペインのある新聞への記事のために無作為に行ったインタビュー取材では、平和記念公園の近くで偶然、被爆者をご家族にお持ちの方にお話を聞くことが出来 ました。記念館に被爆に関する品を寄付しにいらっしゃったお兄様を、木陰でお待ちになっているところだったその方は、広島に原爆が投下された当時2歳。ご 自身は疎開していたため直接被爆はされなかったものの、お母様は、ご家族を探しに爆心地近くまで来て被爆。お兄様は、学徒動員で働きに出ていた同級生が全 員即死、ご本人はその日、疎開の準備で家に残っていて、一人助かってしまったのだといいます。

外国人の視点からは、「アメリカにうらみはあるか」という質問がどうしても出てくるので、答えはわかっていつつもお尋ねしました。
「うらみ?そんなもの持ちようもない。あちらは戦勝国、我々は見込みのない戦争をやった。それが全てだ。戦争とは、そういうものだよ。そして、一部の指導者のせいで大迷惑をこうむるのは、いつも一般市民なんだ。」

その方と別れ、橋を渡りました。あの日、多くの方が煉獄のなかを水を求めてたどりつき、力尽きて重なるように死んでいった川。その上を今、のんきに渡っている自分がいて・・・ふと、長いと思っていた「60年」という時間が、一瞬縮んだように感じました。
広島の人々は、このような強烈な現実のなかで日々生活しているのだ、と思うと、「広島に生まれる」というのは今でも特別な意味のあることなのだ、という気がしました。

世界遺産となった原爆ドーム。サダコの折鶴。声を荒げることなく、青空の下静かに平和を訴える「ヒロシマ」―― その心を、いつまでも世界に発信し続けてほしいと、切に思いました。