木曜日, 1月 18, 2007

モーツァルト考は続く

昨夜、モーツァルト演奏をするにあたっての疑問点を確認するため、小川京子先生宅へ。海老沢先生もいらっしゃればと 思ったのですが、ガレージには車がなくご不在のよう。(海老沢先生のバイタリティは怪物的です。)

ちょっと質問させていただこうというつもりでお寄りしたのですが、ロバート・レヴィンさんの即興なども検討しながら、結局2時間以上にわたり演奏を聴いてくださいました。久しぶりに弾く先生のベヒシュタイン・・・美しい音です。学生時代は心・技・体が一致せず(気持ちばかりが先走り)、いろいろなピアノに対応できなくて右往左往していたのが懐かしい。
となりのスタインウェイで「こういうところ、ショパンなら絶対こうよね、」とメランコリーたっぷりロマンティックに弾いてみたり、「このロンドで昔、止まらなくなってほんとに“ロンド”になっちゃってね・・・ほらこんな風、」と即興なさったり、相変わらずお茶目な先生です。

日々を生きながら少しずつ変化している、私のなかのモーツァルト像。モーツァルトは聴きやすく、癒される・・・というけれど、「小奇麗」なのでは決してない。レヴィンさんのおっしゃるように、やはり大きな意味では「人間社会を映して」います。その“人間社会”は、何百年たっても多分あまり変わっていなかったりするので、モーツァルトを今も演奏する意味があると思うのです。
「モーツァルトの音楽は、彼自身とは別次元で鳴っている神の音楽であり、実生活と生み出した音楽とにはあまり関係性がない」といわれたりするけれど、本当にそうかしら?・・・
実際のところは、彼自身もやはり生身の人間なのであって、そのこころは疾走する音楽のあいだにも投影されている、と、演奏する私は思いたいのでした。

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