金曜日, 5月 04, 2007

ひそかな反逆の思い出(そして今も続く)

ウィリアム・ウォルトンのヴィオラコンチェルトを、3回続けて続けて聴いた。ヴィオラの音色の、なんと甘く切なく苦しいことか・・・ヴァイオリンの甲高い響きを聴き慣れていると、久しぶりに聴くヴィオラの音は人間的で押しつけがなく、寄り添ってくれる感じ。もちろん、ゴシゴシ・わさわさと擦り系のヴィオラ演奏もよく耳にするわけだけれど、名手(と名器)の手にかかると誰でも、ヴィオラという楽器の思いがけない素晴らしさのとりこになってしまうと思う。

いろいろな楽器の伴奏に明け暮れていた学生の頃。そんな弟子の行動はピアノ実技の担当教授を大いに心配させることはわかっていながらも、ひとり短大のほうの校舎にある視聴室へ行っては弦楽器や管楽器の曲ばかりを借り出して聴き、図書館ではレヴィ=ストロースやらドゥルーズやらといった哲学本を開き、小劇場で行われていた演劇科の試演会にも潜りこんだりしていた。スターシステムで名高かった学校の色にうまく染まっている仲間たちを横目に、自分は外れ者なのだということはなんとなく認識していた。
そんな生活を送っていたのは、ピアノという楽器を「ピアノ的」に弾くことへの反発が根本にあるような気がする。協奏曲のオーケストラ部分の伴奏や指揮伴(指揮者の練習のために、基本的にはピアノ2台でオーケストラ曲を演奏する)を通して、この弦のレガートを、ピツィカートを、チェロの音色を、ホルンのあたたかい音を、ファゴットのおどけた表情を、どうしたらピアノに移して鍵盤で表現できるだろうか?とそんなことばかり考えていたのだった。

そして今、自分の録音したモーツァルトを聴いている。きっと、いわゆるピアノ道を真っ当に進んできて生まれたモーツァルト演奏ではないと思う。世の人たちは、はたしてどんな反応を示してくれるのだろう。

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